コミュニケーション能力とグローバル化による大学教育 「英語で読む日本文学」の学際科目について

Steve Corbeil
コルベイ スティーブ(大学教育センター)

2013年10月24日人文社会科学部言語文化学科FD会主催による懇談会で実践授業報告を行った。2012年度から担当する人文社会科学部科目「映像文化論」と学際科目「英語で読む日本文学」に基づき、これまでの教育に関しての研究と経験を紹介し、グローバル化の背景となるメディアリテラシーやコミュニケーション能力を高める方法について他の懇談会のメンバーと考察した。
周知の通り、学生の就職活動において雇用側から、コミュニケーション能力、そしてグローバル化社会で通用する能力が要求されていることを教員側としても実感する。また、その希望に応える人材が少ないため、その人材育成が大学に求められている。しかし、平田オリザ氏(『わかりあえないことから――コミュニケーション能力とは何か』)が述べるように、社会・企業におけるコミュニケーション能力の定義が曖昧であり、多くの場合は矛盾している。恐らく、グローバル化の定義も同じ状況であるだろう。それにも関わらず、学生と社会のニーズに対応する義務を感じている教員が少なくないので、そのキーワードを取り上げる科目やプログラムがますます増加している。
しかし、教育者として、専門知識を教えながら社会の変容に合ったノウハウを学ぶ環境を整えることは難問である。今までの授業に更にコンテンツを加える方法を考えなければならない。また、大学に求められていることは高等教育に対する「危機感」ではなく「好機」の観点から考えるべきであるが、そのためには新しいツールが必要である。まず、曖昧な定義にとどまっているコミュニケーション能力とグローバル化という言葉を、授業などの教育活動によって明らかにし、効果的な概念として活用する方法を見つける必要がある。要するに、教育活動によって、曖昧だった言葉内容を具体化する。しかし、グローバル化社会に対応可能なコミュニケーションのあり方を、具体的に示すのはかんたんなことではない。または、グローバル化には常に不可欠とされる英語を用いて授業を組み立てることもかんたんなことではない。最終的に、新科目を設定する際は、専門的な知識と現場の経験、学生又は他の教員との意見を合わせる力が非常に重要であるが、長いプロセスであり、同じ授業を繰り返し行なっても毎年改善するべきことが現れてくる。特に、加速的に変化する社会の状況に合わせようとすると新しい課題が必ず現れる。このように、問題点も多いが逆に解決策も多いと言える。そこで、今回のFD会に向けて1つの提案を試みた。
筆者の授業では、コミュニケーション能力とグローバル化というキーワードを意識しながら、自分の専門、文学と映像(表象文化論)を教える授業を展開している。 平成24年度からの新科目、「英語で読む日本文学」に特に力を入れている。現在も多くの課題が残っているが、目指しているグローバル化を重視する授業に近いと言える。しかし、科目名を読む時点で当然ながら様々な疑問点が現れるだろう。まず、英語で日本文学を読む必要があるか?文学は翻訳版より原書で読むべきではないか?英語で行うということだけで、国際的な環境を作ることが出来るか?学生は英語で教えられている専門知識を十分理解出来るか?私も授業案を提出した時に、同じ疑問を持った。そこで、これらに答えるべく、以下にその教育法と概要について述べたい。
「英語で読む日本文学」の意義は、英語を用いて別の観点か既知のある分野を改めて考えることである。英語は教員と学生との間のコミュニケーションツールとしてだけではなく、新しい専門知識を取得する方法でもある。近年、英語で様々な専門分野を学習するコンテンツ教育に基づく授業が増加しているが、コンテンツ教育の最終目標は英語の勉強である。多くの場合は、教えられているコンテンツは英語のコミュニケーションを練習するための文脈であり、文法、単語を覚えるための例文になる。要するに、コンテンツよりも、英語の習得のほうが重視されている。当然、英語の教員が教えるべきである。それはそれで重要な教育方法であるが、本授業の目標ではない。私は英語の教授経験もあるが、現在静岡大学では英語の教員ではなくフランス語の教員である。母語もフランス語である。英語は流暢と言ってもよいが、理想のネイティブスピーカーの自然な英語とは言えない。その意味では、私も英語の学習者であるが、練磨によってネイティブにより近づいたと思っている。更に、日本文学は私の専門であるが、日本の小・中・高での国語の授業を受けたことがない。一方、学生は、私にはない別の知識を持っている。日本語も日々の学習の積み重ねによって、1つの愛する文学を理解し、日本語の話者と交流するために習得した。つまり、授業はお互いの知識と想像力を活用し、目の前にある問題を解決する場になる。そして、英語以外の母語話者同士で話すという意味では対等である。要するに、フランスの哲学者のジャック・ランシエールのことばを借りると、「無知な教師」だからこそ、現在の形で教えることができるのである。
本授業では、英語の文法に関わる学習が少ない。英語の文法や単語自体を扱うのは、文学・思想・翻訳の説明や概念を理解するためである。学生が授業中に発言し、作文を書く際も全ての文法や単語の誤りを直すことも目標としていない。学生の主張を理解出来ないことを除いては、英語の指導をしない。更に、他の英語の授業と異なり、レベル別のストリーミングがなく、 TOEICスコアも要求されない。つまり、様々なレベルの学習者が混在している。去年、TOEICスコアが低い学生、帰国子女、留学生、社会人学生は同じグループの中に英語で日本文学について議論をした。それぞれの英語のニーズがあり、対応する方法も異なっている。たとえば、留学生と日本人学生の発音や使用する単語が異なるためお互いの発言が理解出来ないケースもあった。しかも、私の母語は英語ではないので、英語の教員としてというよりも、学習者の立場で指導するのみである。つまり、純粋な英語の授業としては成り立たない。
このように英語教育としては限界を感じているが、逆によい機会であり、英語でも日本語でもコミュニケーション力を深める良い環境と言えるだろう。特に、この授業の目標は、留学生と正規の学生との間の交流を深めることにある。多くの留学生は簡単な日本語で話せるものの、専門知識を日本語で勉強する機会がなかなかない。そういう意味においても 留学生が増加傾向にある日本の大学にとっては重要な授業になるだろう。更に、プライベートで留学生と交流しても、文化・文学・思想に関しての意見交換まではしない学生も授業中に日常会話以上の内容について英語で話す機会をもつことになる。日常会話から離れれば離れるほど、ある意味で本当のコミュニケーションが成立するのである。文化の話で言えばパンと米のような違いを超えて、世界観や価値観の相違点と共通点を比較し、本当に理解し合うことができる。
昨年の学生アンケートでは、日本文学を学びながら、様々な世界の文化を少しでも理解出来たという感想があった。また、留学生の母語は英語ではないものの、流暢な留学生が多いので、正規の学生のモティベーションも高まった。また、ネイティブではない留学生は教科書通りの話し方ではない。つまりそれぞれの訛り、文法や単語の誤りがあっても話が通じ、会話が成立するので、国際コミュニケーションのツールとして、英語を練習するだけではなく、さまざまな体験が出来る。
しかしながら、私の最終的な目標は英語を通して欧米における文学の分析の概念を理解すること、またその翻訳の比較、さらに分析対象となる作品の比較によっても理解を深めることにある。本授業では、『The Oxford Book of Japanese Short Stories』を用いて、近代と現代の日本文学の名作短編小説を英語で読み、解説する。数ページの短篇しか扱わないため、英語読解に慣れていない学生でもそのタスクを達成出来る。当然、日本語版を使用する学生がいるが、授業で作品を分析したり、又はグループでディスカッションをしたりする際は英語の引用を使用しなければならないので、全く英語版を読んでいない学生は授業の内容を把握できない。通常の授業の流れは、講義により英語で一人の作家と一つの作品を紹介する。その後、学生に多くの質問を投げかけ、意見交換を行う。それに基づいて、仮の解釈を設定し、その解釈についてグループで意見交換をする。グループの作業として、「太宰治の『メリイクリスマス』の題名の意味とその短編の小説を説明してください」、または坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読む前に、「桜についてマインドマップを作ってください」などのタスクを与える。このように文学と社会が結びつく課題を提案する。
さらに、昨年からの授業のテーマは英語で言えば「literature and confession」である。ここでは、この言葉の翻訳の問題がある。日本語に翻訳すると文学と告白、又は文学と懺悔という翻訳が考えられる。さらに「文学」と「literature」との比較、「confession」 と「告白」の比較もおこなう。さらに、文学における告白を考察する。そこから欧米における告白文学及び関連する研究と日本における告白文学及び関連する研究について、私小説との違いを強調しながら、比較する。それは、欧米の文学研究の入門、または他の研究アプローチの入り口になるだろう。「confession」の定義の比較によって、告白が行われる社会をさらに理解する。このように、普段の授業であまり見られないような話題もあり、別の切り口で留学生と正規学生の異文化交流が出来る。
この授業を通して、欧米の文学研究、翻訳論、留学生と正規学生との交流、新たなコミュニケーションの場を可能にするために英語は不可欠であると実感した。日本文学を英語で読むことについては違和感があっても、得ることが多いはずであり、今後もこういった授業の継続は有意義であろう。特に、留学生の人数が増加し、正規学生が国際的なコンテンツを希望していることを踏まえると、英語を用いて専門を紹介する科目への関心は一層高まるだろう。先に述べた方法であれば、英語使用が原因で専門知識の提示に支障が出ることもない。むしろ、英語の使用によって、文学の新しい意味を発見し、文学論などの知識が増える。
人文社会科学部言語文化学科FDメンバーとのディスカッションによって、様々な課題が残っていることも実感した。まず、留学生と正規学生の比率を改善する必要がある。現状では、正規学生が多く、留学生の受講生の人数は不十分なため、グループディスカッションの際に留学生のいないグループができてしまうという問題が生じている。さらに、授業の進度を調整する必要があり、分析する作家を増やす段階でもある。また、原作と翻訳を比較する時間を用意するべきである。最後に今後の課題として、文学以外の授業を企画し、それぞれの授業と連携しながら、英語で日本文化・社会について学べるプログラムの立ち上げも視野に入れ、より有意義な授業の実践を目指していきたい。