フランスの教育の危機感と『パリ20区、僕たちのクラス』

 (大学教育センター スティーブ・コルベイ)

 École de la vie。フランス語にはこういう言葉がある。「École」は「学校」「vie」は人生という意味である。つまり、「人生は学校だ」。この表現の解釈は2つ考えられる。1つは、実質的な日常生活やその中での経験そのものが、学校のようなものであり、いろいろなことを教えてくれる場である、という解釈である。もう1つは、実質的な経験以外のものは必要ない、つまり、学校教育に意味がないという極論である。この考えは、学校教育と日常生活との乖離を顕示したものだと言えるだろう。
 学校や教育を扱った映画(日本ではいわゆる「学園もの」)の中では、学校での学びと日常生活は決して乖離したものではない、ということを、理想的な教師が登場し、生徒たちにそれを感じ取らせ、自分の将来や生き方人生や行動について考えさせるという構成になっているものが多い。こういった映画の中でも特筆すべき作品は、世界的にも評価の高いピーター・ウィアー監督ロビン・ウィリアムズ主役『いまを生きる』(1989年)である。詩の理解によって、英語の教師が文学の魅力を証明し、ただの勉強ではなく古代ローマの詩人ホラティウスの言葉、「その日を摘め」(ラテン語でカルペ・ディエム)を引用し立派な人間になる方法を紹介している。
 そして、昨今脚光を浴びた作品は2008年にカンヌ国際映画祭のパルム・ドール(最高賞)を受賞した『パリ20区、僕たちのクラス』(フランス語の題名はEntre les murs)である。舞台は題名にもあるとおり、パリ20区という特に移民の割合が多い地域の公立中学校である。映画はほぼ100%近くが学校の中(教室、校庭など)を中心に撮られており、あるクラスの生徒たちと担任教師の様々な場面でのやり取りが淡々とドキュメンタリー風に描かれている。俳優たちもプロではなく、実際に「問題校」と言われる学校にいる生徒たちである。担任教師はもともと教師であり、この作品の原作者でもある
 主人公はフランス語の教師であるが、このことは実は重要な要素となる。学校教育と実生活の学びがかけ離れたものではないことを示すために、「言葉」の果たす役割は重要である。(例えば、『今を生きる』の教師も英語の教師であり、日本の学園ドラマ『金八先生』も国語教師である)。生徒たちは「言葉」によってこそ、自分の悩みを表現することができる。また、それだけではなく、現代の多くのフランス人は国語に対して危機感を感じている。メディアでは若者は標準フランス語を話せなくなってきているため、十分に自分の考え方を伝えられないという議論も、よく出てきている。正しい文法が使えなかったり、語彙が不足しているのも教育制度にその原因がある、という指摘もある。そして、移民の人口が増加しているフランスでは、他国にルーツを持つフランス人に適切なフランス語を教えるシステムが教育制度としてないため、それに対する批判も多い。『パリ20区』の中では、移民の家族に生まれた生徒が何人もいる。そして、主人公は自分の担当クラスでフランス社会の問題そのものに直面することになる。その状況では、従来のような「教師が学生に教え込む」というスタイルは到底通用しない。彼はそうではなく、学生と目線を合わせ、対話を重視する方法で生徒たちと接していくのである。教室では日々、担任教師と生徒が様々な議論を戦わせる。それが時として過熱しすぎたものとなることもあり、生徒たちは教師に反抗的な態度をとることもあるが、それでも教師はあきらめず、生徒たちとの対話を根気強くすすめていく。特に、「自分についてクラスで話す」という作業を課してそれを実行していく中で、生徒たちは「学ぶとはどういうことか」についてだんだん気づいていく。
 しかし、この作品の中で教師はいつも完璧な姿としては描かれていない。例えば、生徒の文法ミスやスラングの使用を放置したり、教師自身も悪い言葉遣いをしてしまう、というシーンもあり、教師自身も時としてまちがったり、迷ったりする存在として描かれているわけである。最初は、良かれと思っていた教育方法でも実際はうまくいかない、という場面も頻繁に出てきている。そういった意味では一般的な学園ドラマのように、問題が解決して終わるような結末とは異なっている。全体として、この作品は理想の答えを描写することが目的ではなく、今ある問題点を取り上げるということが目的なので、わかりやすく解決方法を提示するものではない。むしろ、個人の力ではどうしようもない大きな社会の問題を理解し、解決するために試行錯誤を繰り返す教師と生徒たちの日常生活を描写している。
 また、教師の教育方法については作品中では明示されていない。しかし、最終場面で次のようなシーンがある。ある1人の問題のある生徒に「今年何を学んだか」と質問すると「何も学校で学んでいない」と答える。しかし、その生徒は、おねえさんの持っていたプラトンの『共和国』を読んだ事は勉強になったと答える。『共和国』の内容をはっきりとわからなかったにも関わらず、主人公のソクラテスの教えかたにとても関心があったとその生徒は言ったのである。それは「産婆術」というものである。産婆術は一方的に覚えさせる方法ではなく、相手に自ら方法を見つけさせるという方法である。そういう意味では主人公の教え方と非常に重なっているので、生徒は「何も学んでいない」言いつつも、実は教師の教育方法の効果を間接的に理解していたといえるのではないか。残念ながら、教師はソクラテスではないので完璧ではないが、主人公が求めている教育の理想像はこの産婆術ではないだろうか。そう考えると、このシーンはまさに、この作品が伝えたいことと一致する。
 一方、この映画の中に出てくる教育方法について懐疑的、あるいは批判的な見方をするフランスの教育専門家や教師もいる。例えば「生徒に合わせるのは良くない。教員を尊敬しなくなる」とか、「勉強しなくなる」、あるいは「時間は限られているのだからもっと知識を与えるべきだ」という意見が出てきている。 同時期に公開された映画、La journée de la jupe『スカートの日』(2009年、この映画もやはり、フランス語教師を主人公にした映画である)が、ここでは『パリ20区』と全く逆に、生徒の意見には耳を傾けず一方的に知識を教えこみ、文化に対しても柔軟な姿勢ではなく、生徒たちと徹底的に闘う。つまり、教師が自論の正当性の証明をしている姿が描かれている。フランスでもこの2つの作品に対する評価は分かれている。現在のフランスの教育において問題が山積していることは誰もがわかっているが、2つの映画に描かれている解決方法は正反対であるため、今後どのような方向に向かっていけばよいのかについては、多くの議論がなされているところである。フランスの中学校や高校の教師はよく新聞などのメディアに登場し、教育問題について指摘したり、現場の悩みや意見を述べる機会がある。そのため、世論としても、現場から解決策が見出されることが期待されている。
 このように「パリ20区、僕たちのクラス」は教師が学校と人生の距離を縮めようとしている姿を描いた映画である。生徒たちも学校という場で様々な試行錯誤を繰り返し、その時間をまさに生きようとしている。つまり学校も人生の一部になっている。生きることは単純なことではない。学校と人生がどのように繋がるのかは、この映画の観客自身が見つけなければならないのである。フランスの問題は日本でも今後現れる可能性もないとは言えない。早めにその解決方法についても考えておく必要があるだろう。教育は社会と同様、日々進化していくものであり、多くの議論が重ねられることによって様々な方向から刺激を受け、より良い方法が見出されていくものと考えられる。


1971年生まれ。フランスの教員資格、CAPESとアグレガション両方とも取得。中・高校のフランス語教員以外に作家、映画評論、歌手、テレビコメンテーターとして活躍。「パリ20区、僕たちのクラス」の原作の作家。『教室へ』秋山研吉(訳)早川書房 2008年。 
特に、Alain Finkielkraut(アラン・フィンカルクラウト)のLe Monde新聞の中での反論,「Palme d’or pour une syntaxe défunte」2008年6月4日とVéronique Bouzou (ヴェロニック・ブズ) 『L’École dans les griffes du septième art: Une Palme d’or scandaleuse』 De Paris出版社2008年。