【Steve Corbeil・大学教育センター】シンポジウム報告 大学で”映画を学ぶ/映画で学ぶ”
シンポジウム報告
大学で“映画を学ぶ/映画で学ぶ”
コルベイ スティーブ
大学教育センター講師
2012年11月17日、人文社会科学部言語文化主催シンポジウムが静岡大学のキャンパスフェスタで行われた。学習院大学の中条省平先生、早稲田大学の甚野尚志先生、そして筆者(コルベイ)がパネリストであった。それぞれの切り口が異なったものの、共通していた点は、映画と教育の関係性、またフランス語・フランス文化への強い関心であり、これらが本シンポジウムの核となった。
中条先生は、第二言語としてフランス語教育における映画の使用の問題点と可能性について発表された。結論から言うと、外国語を勉強するために映画鑑賞はとても魅力的な方法に見えるが文法や語彙や表現の習得のためには、授業で1つの映画の全台詞(フランス語でrépliques)を翻訳し、分析しても、あまりメリットがない。多くの場合は映画の台詞はとても分かりやすく、難読なものではないことから、初心者でも辞書さえあれば翻訳出来るため、教材として考え難い。その問題を避けるため、映画の脚本に基づく授業ではなく、文法のレベルでも意味のレベルでも学習者の挑戦となる映画の名台詞をピックアップし、解説する、という提案をされた。また、映画や漫画の評論家としても活躍する中条先生は、紹介する作品の製作背景や映画史の中での重要性を紹介された。近年、映画や映像メディアに関しての教養知識を持つ人が減少する傾向にあるため、自分が興味のある映画の題名と映画監督の名前だけではなく製作コンテクストと作品のリンクを完全に把握出来る知識としての映画史を知り、紹介することも教員や研究者の役目であることを強調された 。
歴史と製作コンテクストの紹介の必要性は甚野先生の発表においても軸となる話題となった。歴史家である甚野先生は、大スペクタクルを追求することや製作された時代の社会思想を描写することを目的として、多くの映画は研究から得られた歴史的な事実を無視するので、授業で使用する際には、慎重に選び、選んだ作品と歴史的な事柄の関係を指摘すべきだと次のように主張された。例えば、リドリー・ソコット監督の歴史映画の『グラディーエター』(2000年)、『キングドム・オブ・ヘブン』(2005年)、『ロビン・フッド』(2010年)では、質の高い映像や世界観を創造し、人々に興味を沸せる一方、現代アメリカ文化や思想が入り混じり、歴史を無視する。又、一般的な映画が歴史の多義性を表象出来ないことも注意する必要がある。多くの歴史の出来事に関しては、研究者の間ではまだコンセンサスがない。しかし、映画は様々な説の中でいずれか1つの説を選択せざるを得ない上に、唯一の真実として紹介する。映画は歴史の勉強の良い入り口であるが、大学のレベルでは批判的な立場で鑑賞し分析するべきである。
最後に筆者の意見を簡単に述べることにする。 フランス語や歴史の授業においても、すべての映画と教育の関係を考察するために、ツールとしてメディア媒体の観点から分析する映画学というアプローチが重要な役割を果たすと筆者は確信している。2012年度から静岡大学で担当している「映像文化論」の目標はそのアプローチを用いて、学生のメディアリテラシーを高めることである。特に、映画鑑賞し考察するとどうしてもストーリー、台詞、メッセージ性のような曖昧な概念に基づいて分析する傾向がある。言いかえれば、映画を映像化された文学としてのみ捉える。しかし、19世紀に新しい媒体として誕生した映画はすぐに独立した表象手法になる。様々な説があるが、他の手法と比較すると最も根本的な相違点は視覚性である。そして、映画が誕生すると、その視覚性から、もはや他の手法では表現できないと確信を持つ映画製作者や評論家も現れた。映画製作者は、現在に至るまで、映画史、前作に影響を受け、映画に独特なディスクール(言説)を成り立たせてきた。映画の中では(ストーリーを含めて)視覚の可能性と限界が現れる。様々な映画において視覚は描写方法だけではなくテーマでもある。例として、アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』(1960年)、押井守監督の『攻殻機動隊』(2002年)などにおいては、視覚はある真実を表し、又ある真実を隠し、操る手法として描写されている。従って、その複雑な歴史をわれわれは受け入れざるを得ない。そのために、まず、映画を視覚の媒体として分析する。新しい言語として、映画の文法を学び(例:モンタージュ、ショットなど)、その文法の具体的な活用を理解する。最後に、全ての映像について(漫画、テレビ番組、広告など)その批判の観点から分析し、全体的なメディアリテラシーを高める。
以上のように、3名のパネリストのアプローチは異なるものの、教育に映画を取り込む必要性という点において意見の一致を見た。上述のように、未だ様々な問題点も存在するが映画を授業で取り扱うことの教育的効果は大きいと考えられる。そのために、今後は1つの教育方法として体系的に整えていく必要があるだろう。こう言った意味でも、今回のシンポジウムは今後の大学教育のあり方を再考する良い機会となった。