【松野和子・大学教育センター】■ニュースレター2015年度 特集記事「英語での授業」第5回■

ニュースレター特集記事「英語での授業」を振り返って

松野和子(大学教育センター・2015年度英語科目部代表)

_今年度の大学教育センターニュースレターでは「英語での授業」が特集されることとなり、4名の教員が記事を執筆した。高瀬祐子先生は英語を学ぶ全学教育、シェーファ・ジェフリー先生は専門科目への橋渡しとして開講される全学教育の「アカデミックイングリッシュ科目」、グレニジ・ダリウス先生は英語科目以外の全学教育、鈴木実佳先生は学部専門科目という、それぞれ異なる背景から「英語での授業」が議論された。このように、別の立場から執筆された記事だが、「「英語での授業」を提供すること自体が教育活動の目的ではなく、「英語での授業」のその先には学生に身につけさせたい知識・能力・技能/技術があり、それを実現するための手段の1つとして、授業を英語で展開する授業スタイルが採用される」という視座が底辺にある点で一貫して共通していたと捉えている。母語による授業に比べ、「英語での授業」であると効果的に身につけられる知識・能力・技能/技術は何なのか(解によっては英語での様式が選択されるわけではない)が意識されていたと思う。また、特集記事から以下の着眼点が見出された。

1. 「英語での授業」の目的は何か。なぜこれらが目的とされるのか。
2. 上記の1を考える上で立ち戻ると、外国語を学ぶとはどういうことなのか。
3. 上記の1と2を踏まえ、「英語での授業」において、どのように授業を展開するとよいか。

_論点1では、高瀬先生とグレニジ先生が「グローバル化」というキーワードを取り上げていた。「グローバル化」では、国内外へ向けて情報を瞬時に送受できるテクノロジーの発展も伴い、多岐に渡る分野で世界単位でのコミュニケーションがさらに進むことが想定される。そのような中、コミュニケーションの主要な道具の1つが言語であり、共通の言語として主要に用いられるのが英語である。また、「グローバル化に対応できる人材育成」の言及には、国内を超えたビジネス戦略、経済実情と密接に関わり合う政治・政策的側面とも切り離せない。そして、その点を再考すると、英語を学ぶことは、日本が置かれている経済・政治・文化等の外交的関係の現状とも合致する。「グローバル化」において、英語で受動的・能動的に活動できる言語運用力(例: 情報・知識を得る力、発信・共有、人間関係の構築、議論・交渉等ができる力)を養うために、英語を授業で (時に受動的に時に能動的に)実際に運用し、その技能の獲得をめざす。(上記は、受動的・能動的な外国語運用力が必要となる海外留学を計画している学生に対して、現地での学習をスムーズに開始させる目的とも一致する概念であり、留学という側面も内含している。)
_一方で、「共通語」が英語であることを顧慮なく無造作に受け入れてよいのだろうか。優劣のない母語それぞれにおいて、ある自然言語が「共通語」として選ばれているアンバランスについて思量し、「現実を生き抜く」駆け引きの中で英語を学ぶという俯瞰的視野を閑却してはいけないと思う。しかしながら、学生たちには「グローバル化」がどのように映っているのだろうか。学生たちは、日本を超えたつながりをどれくらい実感しているのだろうか。未来の見通しを含め、実際に、日本を超えた環境に発信的に関わっていく学生はどのくらいなのだろうか。「グローバル化」という道標を掲げると、「グローバル化」という語の漠然さ、「グローバル化」の実感とその未来ビジョンの漠然さが学習への原動力となる意欲を漠然とさせているようにも思う。

_論点2「外国語を学ぶとはどういうことなのか」を考えると、その答えは1つではないと思う。例えば、よく耳にするとおり、母語が異なる相手とのコミュニケーションの道具としての利用が挙げられる。そして、それは単に内容を受け取って発するだけでなく、紡がれた言葉の向こう側にいる、文化・社会・価値観など様々な背景を持つ相手を知り、相手の視点に気づき、新しい視点を学ぶことにつながる。さらに、これまで「当然」と思っていたことと異なる視点に触れ、自分を知ることになるかもしれない。外国語を学ぶことによって、日本語に留まらない情報を自身で直接的に得られ、質的・量的にさらに豊かに情報を享受することもできる。それによって、ある言語において 1つの出来事・物事・事実がどのように表現されているかを知り、異なる見方や考え方に深く多く触れることができるかもしれない。また、言語は、言葉そのものに文化や社会構造・思想が内在しており、外国語を知るそれ自体からも異なる視点を感じ、「思考」や「感情の表出」の媒体の1つである「ことば」を通して、日本語の中の自分の視点に気づくだろう。
_私が携わる外国語を学ぶ場では、相手の立場・見方・考え方を知り、相手を尊重する心を培うことができればと考えている。そして、「当然」の中に自己を見出し、自己を尊重する心を培うことができればと思う。相手と自己を尊重する関係の中で、相違点も類似点も認めつつ、自己の言動、あり方、考えに責任を持つ心を培うことができればと考えている。異郷の地での体験、外国語での作品の機微を楽しむという直接的な側面も含め、相手と自己への尊重心など、外国語を学ぶことの1つは人生や人間をより豊かに深くすることを含むと思っている。

_論点3「「英語での授業」において、どのように授業を展開するとよいか」について、特集記事での授業報告では試行錯誤の過程がみてとれる。英語で授業を提供すれば、魔法のように学習がうまくいくものではない。また、どの授業でもうまくいく一辺倒の方法もない。鈴木先生の授業例のように、英語で授業をするという授業スタイル以外の教育的構成要素をどのように組み立てていくかを精査する必要がある。例えば、授業の目的では、本稿の論点1のような抽象的な目的に留まらず、そこから具体的な目的を導き出し、その目的を効果的に実現する方法を熟考して、履修学生の様子を把握しつつ、採用すべき学習項目や授業形態・授業展開方法を吟味することになるだろう。「何が英語でできる学生を育てるのか」について思索し、「何を英語でできるようになりたいと学生が考えているか」と一致しない場合は、なぜそのような英語運用力が必要なのかを学生に説き、意欲を引き出すことも必要となるかもしれない。
_グレニジ先生の授業報告では、英語の発音を訓練する演習を行うことになったとのことだった。その背景となり得るシナリオを推し量ると2つある。1つは、英語を「伝える媒介」と捉え、英語を通して伝える「内容」に重点を置くシナリオである。そこでは、音声という媒介よりも「何を伝えるか」という中身が重視される。また、母語の影響を受けた発音は発話者のアイデンティティとして尊重される(また、そのような心を伝えたいとも思う)。「共通語である英語」は、非母語話者同士のやりとりでも利用され、「正しい」発音というもの自体が存在しないとも考え得る。一方で、現実はそれだけでは完結しない側面がある。これが2つ目のシナリオである。伝える場で、ミスコミュニケーションや誤解を生じさせないように相手に通じる発音を学ぶという考え方がある。そして、ある場面や文脈では、類義語の中でどの語を選択するか等の言葉遣いだけでなく、「ことば」をどのような音声で発するかが「なんとなく信頼できる」「なんとなく好感が持てる」などの空気感をまとうことがある。そのような空気感は、発表や交渉・説得などの言語運用力に通じていくかもしれない。発音に関するシナリオが2つに分岐したように、言語運用力の養成を目的とした際も、捉え方によって具体的な目的は異なり得ると考えている。
_また、シェーファ先生が担当した「アカデミックイングリッシュ」の授業は、「日本の古典文学・生活・歴史」を題材に、英語で留学生と学び合う授業となっていた。日本語を母語とする学生では、英語で自身の歴史や文化を学び、英語で説明を行うことによって、「自己」について新たな発見をし、「自己」を見直した学生もいるだろう。「自分」を知らないことに気づいたり、知っていても説明ができないことに気づいた学生もいたかもしれない。「ことばのもつズレ」を高瀬先生が記事で言及していたが、まさに母語と外国語間の「ことばのもつズレ」にとまどい、言語に内在する文化や思想を感じとった学生もいただろう。英語による運用力を養う活動も論点2に通じ、「英語での授業」は単なる言語運用力の養成で始終しないといえるだろう。

_時間は有限であるため、1つの授業だけで全てを身につけるのは不可能である。「英語での授業」を実践する各科目・各授業は、大きな枠組みでは「(学習内容を通して)英語を運用できる技能を身につける授業なのか」・「(英語を通して)学習する授業なのか」のどちらに焦点をあてるかを明瞭にし、科目1つ1つを分断して設置せず、習熟度の段階的設定を組み込みつつ、科目間や授業間で相互に連動させて総体的に機能させていくことも必要であると考えている。その際には、それぞれの目的に沿いシナリオが異なる科目群・授業群の中で、何を必須とし、何を選択とするのかの見極めも大切である。また、個々人の生き方として、誰もが皆、第二言語を「英語」とする必要はない。その意味では、英語科目を超えた外国語授業群での連動も考え得るかもしれない。