【花方寿行(H25年度初修外国語科目部代表、人文社会科学部)】初修外国語の現状と課題、そして展望

初修外国語の現状と課題、そして展望
花方寿行(H25年度初修外国語科目部代表、人文社会科学部)

本学に赴任してきてからはや15年近くが経過、東部スペイン語唯一の専任教員として、右も左も分からない状況で非常勤の差配から予算配分のルール作りまで四苦八苦しながら取り組んでいたのが、一昨年は科目部副代表兼授業計画実施委員、昨年は科目部代表を任されるにいたった。この間スペイン語部会で代表か副代表を務めていない年は1、2年しかなく、初修の担当本数も毎年6コマ(初期は7コマ)でやってきているので、初修外国語の状況については最前線で見てきたといっていいだろう。そんな立場から初修外国語の現状を語るとなると、まず気になるのは、初修を担当しない教員の側になぜか広くみられる初修軽視と、学生の側にみられる関心のギャップである。
これは静大だけに限らないのだが、日本ではなぜか「グローバル化=英語」という思い込みが一人歩きしていて、英語さえできれば他の外国語は不要という極論が振り回されがちだ。これは日本人の多くが持つ英語コンプレックスの裏返しではないかと思われるが、実際に外国に出、外国人と接する者ならばすぐにその誤りに気づくだろう。「グローバル化」の現在、国際的な場においては自国語と英語に加えてもう一つの言語が求められることが多くなっているのだ。英語さえできればという考えがアメリカにおいてももはや有効ではないのは、『イングロリアス・バスターズ』や『ラッシュアワー3』といったハリウッド映画においてすら、「英語しか分からない」アメリカ人が風刺の対象となっていることからも明らかだ。もちろん日本人学生の場合、英語は様々なメディアにアクセスする上で必要不可欠な第1外国語だが、日本語が日本以外ではほぼ用いられていない以上、英語圏以外の出身者と会話をする時には、もう一つ使える言語があるとないとで便利さがまるで違ってくる。「グローバル化」にともない、「外国人=アメリカ人」という一昔前の発想がまったく場違いになった今だからこそ、初修外国語の重要性はかつて以上に増している。
そういう現状を知ってか知らずか、教員側以上に学生の方が初修外国語には積極的だ。一昨年まで直接専門の授業と関わらないから、英語の方が重要だからという教員サイドからの申し入れで、初修外国語科目が全くとれなかったり、完全な選択科目にされていた学部・学科の学生たちは、少しでも選択が可能であれば、とりにくい条件にもかかわらず、大多数が初修外国語科目を履修しようとしてきたし、我々現場の教員はしばしばなぜ履修できないのか、なぜ2年から科目がないのかという問い合わせを受けてきた。そして全学部に初修外国語が復活したこの2年間の経験から分かることは、初修外国語を学ぶ熱意や能力に、文系理系の違いも含め、学生が所属する学部・学科の違いは、全く関係ないことだ。特に静大生のように比較的真面目に高校まで勉強してきた学生たちは、入学当初からきちんとシステムができていれば、それに対応して勉強をする習慣ができている。あまりにも少ない時間、あまりにも一般的な話でまず関心だけを高めようとするよりも、着実に授業を進め知識を身につけさせることが必要だ。
現在の初修外国語のカリキュラムは、そのためにはまだ改良の余地がある。時間数は一時よりは増加したが、特に2年次以降の選択科目については専門科目とぶつかりがちで、必ずしも学生のとりやすさが配慮されていない。また教える教員側の体制も、残念ながら万全とは言いがたい。関東からも名古屋圏からも距離があるため、教育スキルの高い非常勤を手配することが難しい上、初修外国語を担当する常勤教員がこの10年ほどで大きく削減されたため、授業の質の向上以前に開講本数分の教員の確保に忙殺される始末である。実用英語と初修外国語は、全学教育科目の中でも毎年の開講本数が多く、しかも講義ものではなく実質演習科目であるため、クラスサイズが大きくなれば教育効果は著しく低下する。適正なクラスサイズを維持しながら、基礎的な訓練が身についている教員に授業をしてもらうためには、外国語教育を言語学や文学を専門とする一部の教員にのみ押しつけるのではなく、全学的な課題として制度的に対応する必要がある。
こうした組織的な対応は、短期のプロジェクトに予算配分が偏る現在、なかなかとりにくいことは分かっている。しかし研究が仮に短期プロジェクトの積み重ねとして遂行することが可能だとしても、教育はそうではない。大学が教育機関である以上、我々には長期的な対応が必要な教育の根本に関わる部分を、何としても守り改善してゆく義務がある。かつて外国語学習は、外国語の専門書を読んで知識を得る手段として必要とされてきた。この役割は現在、多くの分野で英語で代替できるようになってきている。しかしこれから先求められるのは、外国語話者と共に暮らし、仕事をする際に必要な語学力であり、その時我々は相手の母語や英語力を無視して、とにかく日本語でなければ英語で押し通すというわけにはいかない。「グローバル化」時代だからこそ、英語だけでなく初修外国語もまたしっかりと教育している大学こそが、今後はより必要となってくるはずである。その時静岡大学が胸を張ってニーズに応えられることを、切に希望している。