【Darius C. Greenidge・グローバル企画推進室】■ニュースレター 2015年度 特集記事「英語での授業」第4回■

予知せず見つけた、「非語学的」英語での授業の「意外な教育次元」:
示唆に富むグローバル教育の未来への参考
Serendipitous findings on the “extraordinary educational dimensions” of teaching
non-English language courses, in English:
Implications for the future of “Global Education”

Dr. ダリウスC. グレニジ  グローバル企画推進室
Dr. Darius C. Greenidge  Office for the Promotion of Global Education Programs.

_英語で「科学と技術」の授業を静大で教えるようにと頼まれたときに、普通に、「内容がちゃんと伝わる」を重視する!という心構えでしか向かって行きませんでした。しかし始まってみれば、思わぬ次元に入り込むことになると分かりました。ここで、一番に読者に心得て欲しいのは、「英語での授業」とは、「英語を教える・言語学的英語教育」ということのではありませんので、「非言語学的」教育を狙う必要性があると思いました。文法・単語・会話などの勉強は専門家に任せましょう。しかし学生の母国語が英語ではない、特に日本人学生、だと様々な面白い出来事が起きます。勿論、喜んで対応して行くのですが、こういった授業を教える経験の豊富な教員にとっては「日常茶飯事」だと思えども、多くの方は社会現象的な意味合いに気づき、上手く授業を行うように、こういった次元も沈思せざるを得ません。しかも、現代日本における「グローバル化」に関して、「どのように日本人学生に受け止められているのか」という事を察するのは教員のためにもなります。

_現在、執筆者は2度目の後期科目「英語での授業」担当中ですが、最初の学期には学生の英語力が問われていなく、授業テーマに興味さえあれば、学生が登録できました。従って、「実験的」な授業で、「英語で」と要求されても、英語教育の差によって、ある学生は力が及ばず、教員がおまけに日本語も使わざるを得ない場合が多く、英語での授業の内容をちゃんと理解して貰うように頑張るしかありませんでした。それにしても、自ら授業を選んでも、ある学生が英語での教育に対して抵抗感を示します。堂々と「この授業の英語をやめて、日本語で行って下さい」と主張まで・・・しかしこういった学生は決して「いや」な現象ではなく、やはり、現代日本社会が受けている精神的重荷を表していると思うのが賢明であります。ある先生から聞いた話によりますと、中学の時から英語が好きでも、わざと下手にしゃべらないと苛められることになる。試しに、英語が好きで大学で頑張っている学生にそういった現象に関して聞いてみれば、最初は質問に驚いて、しかし開き直って、微笑みながら部屋のどこか遠い彼方を眺めて、「そうね、何と言えばいいか、上手くできる子が偉そうに・・・」という風に返事しました。更に、この点について明確にしようと、又別の学生に対して:「日本での英語教育の目的をどう捉えますか」と聞くと、学生が家族との話によって出した結論は、現代日本における英語教育は実体のない、ただただ外国に対して、「やっている」と示す行為である、と語りました。おそらく、日本での英語教育の辛さを物語っている結論であると思われます。英語での授業のserendipitous 発見(ある物を探している途中、別に価値の高い物を発見)とでも言いましょう。歴史的・政治的な要因を別にして、日本での英語教育などの難しさの原因の一つは、執筆者の観察から結論を出せば、最初から相応しい英語の発音が日本で養われていないからです。つまり、発音がちゃんと理解されていないと、英語での授業、会話などを聞いても、いくら単語の知識が抜群でも、聴解力不足だけで難しくなります。この点についての重要性はきっと、現代日本の教育界において重視されていないでしょう。特に、片仮名の振り仮名がローマ字に被せられ、片仮名の形の外来語が利用されすぎている原因が一番大きいと執筆者が判断しています。こういった障害によって、英語が好きでも上手くできないことによって強迫観念を持つ者が生まれて来る傾向もあると見られます。

_今期は、TOEIC600点以上が履修要件で、熱心な学生が殆どですが、英語での授業の難点の解決策として、英語の聴解力を高めたいと希望する学生に対して支援を提供することです。簡単に言えば、愛読書を持って来て貰って、学生が音読しているところ、内容を理解するよりは単語一つ一つの発音を直して行くことです(そういう指導を「発音クリニック」と呼んで、陽気に「治して行く」と書いた方が相応しいでしょう)。現実に、多くの学生さんが「治療」を受けに来ます。そして何より、彼らが始めて正しく発音ができるようになる喜びの顔を見るのはお金で買えない程の価値の高いご褒美であります。まさに、上手くなりたい!正しい言語の音色を発声する喜びを知りたい!という立派な学生が沢山います!また、学生自身に任せた、言語的独学は簡単です。

_学生に限らず、英語での授業を行う先生方にも役に立ちます。発音を教えるにはコツがありますが、組織的に行えば、関わる方々の世界での活躍が大いに上昇する証言結果が見られます。皮肉に、英語の発音の力が上達すればする程、母国語である日本語がおかしくなる傾向もあります。そこで、外国語を勉強する人が自国語をしっかりと守らなければなりません(両立が大事です)。その上、言語を学ぶ目的自体が単なる「自分を圧迫していると思われる国」に対して「英語をやっている!」と表面的に見せるためではなく、実に学生の世界での活躍の強い「味方」になってくれる教育も導入する必要性があるでしょう。曖昧な国策に任せれば、現代日本で見られる報道陣・芸能界など(皮肉にも片仮名の「マスメディア」として知られる世界)においても、見る国民においても、片仮名語の教えから生まれる日本語の狂い、または、「英語が駄目だけれど、英語と似た日本語で頑張っている!」と見せたがる行為を引き起こした現象も、文化的崩壊の結果となる懸念もあります。しかし、上記の現象を認めるか認めないか、しっかりした日本がいわゆる「グローバル」な世界に向かって行けるのかはまず、言語力を尊重し、外国語も日本語も両立的に尊重する教育環境を作って行くことにあると思います。